櫻井眞一郎さん:オーテックジャパンを作った人
この面の立ち位置
櫻井さんのスカイラインの仕事やR380は、同じ編集部の非公式のファンのサイトで詳しく読めます。このサイトでは、「オーテックジャパンを作った人」という一点に寄せて、原文を読みます。レーシングカーのR380はR380の面にまとめました。
原文で確かめられた経歴
- 生まれ
- 1929年4月3日・神奈川県戸塚(日産ヘリテージのレジェンドのページ)
- 入社
- 清水建設を経て、1952年にプリンス自動車に入った
- スカイライン
- 初代から関わり、3代目で開発責任者。3代目(ハコスカ)から7代目まで、総指揮をとった
- 病気
- 7代目の終わりに病で伏し、伊藤修令さんが代わりを務めた。回復後、その職には戻らなかった
- オーテックジャパン
- 初代の社長に就いた(レジェンドのページ)
- 顕彰
- 2005年に日本自動車殿堂入り
- 亡くなった日
- 2011年1月17日(81歳)
オーテックジャパンの設立と櫻井さん
オーテックの30周年のページによれば、オーテックジャパンは1986年9月に、神奈川県茅ヶ崎市で「特装エンジニアリング会社」として設立されました。ページには、初代社長として櫻井眞一郎さんが就いたと書かれています。メーカーの量産ラインでは作りにくい、少量の特別仕様の車を設計して形にする会社、という出発点です。
スカイラインのように、量産車の中心で長く指揮をとった人が、少量の特別仕様の会社の初代社長になった、という流れは、年表で見ても印象的です。ただし、「なぜ櫻井さんが社長になったか」「社長として何を決めたか」は、確かめた原文に書かれていません。そこは推測しません。
オーテックの最初の車を読む
設立から6年後の1992年に作られたのが、スカイライン オーテックバージョンです。4ドアのスカイラインに、RB26DEエンジンを積んだ車で、スカイラインを率いた人が作った会社が、スカイラインの特別仕様を作ったことになります。ただし、この車の企画に櫻井さんが関わったかどうかは、ヘリテージコレクションのページに書かれていません。「会社の初代社長」と「その車の開発者」は、別のことです。1989年のオーテック ザガート ステルビオも、設立後まもない時期の車です。
スカイラインの側から見た、設立までの流れ
ヘリテージのレジェンドのページによれば、櫻井さんは1952年にプリンス自動車に入り、スカイラインの初代から関わりました。3代目で開発責任者になり、3代目から7代目までを総指揮した、と書かれています。7代目の終わりごろに病で伏し、伊藤修令さんが代わりを務めました。回復したあとは、その職には戻らなかった、とあります。オーテックジャパンの設立は1986年9月で、年だけを並べると、スカイラインの総指揮の時期と近い年代です。ただし、スカイラインの仕事をいつ離れて社長になったのかは、原文に書かれていないので、このサイトは結びつけて書きません。
よくある質問
オーテックジャパンの創業者ですか
桜井と櫻井は同じ人ですか
R380との関係は
読み方のコツ
- 表記:日産ヘリテージのページは「桜井」と「櫻井」の両方を使っています。このサイトは、旧字体の「櫻井」で統一しました。
- 肩書きの種類:ヘリテージの車のページでは「開発責任者(チーフエンジニア)」として名前が出ます。オーテックの30周年のページでは「初代社長」として出ます。同じ人でも、ページごとに役割の語が違います。
- 年を足さない:社長に就いた年が書かれていないので、「1986年から社長」とは書きません。設立は1986年9月、社長に就いたことは事実、と分けて読みます。
この面で確かめていないこと
- 社長に就いた年・退いた年、社長としての仕事。
- プリンス自動車での肩書きの移り変わり。
- オーテックジャパンの個々の車の企画に、櫻井さんが関わったか。
- 人物の写真は使っていません。
出典
- 日産ヘリテージ レジェンド04 櫻井眞一郎(日本語ページ)(2026年11月7日に確認)
- オーテックジャパン 30周年 歴史のページ(2026年11月7日に確認)
- 日産ヘリテージ プリンス R380-I(英語ページ)(2026年11月7日に確認)
- 日産ヘリテージ プリンス R380(日本語ページ・No.045)(2026年11月7日に確認)
出典のページを編集部が開いて読み、書いてあることだけを、自分の言葉でまとめています。原文の転載ではありません。