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プリンスR380:櫻井さんが関わったレーシングカーと、オーテックとの接点

先に結論プリンスR380は、プリンス自動車が作ったレーシングカーで、1966年の第3回日本グランプリで優勝しました。日産ヘリテージのページでは、櫻井眞一郎さんが開発責任者として挙げられています(2026年11月7日に確認)。オーテックジャパンがR380に直接関わった、という記述は、確かめた原文にありませんでした。この面は「櫻井さんが関わったレーシングカー」の紹介です。
プリンスR380(展示車)の写真
プリンスR380(展示車)。写真:MIKI Yoshihito from Sapporo City,Hokkaido., JAPAN/CC BY 2.0/Wikimedia Commons(縮小のみ)
エンジン
GR8・専用設計の直列6気筒・4バルブDOHC・1,996cc・ミッドシップ
最高出力
200ps(147kW)以上/8,400rpm
最大トルク
17.5kgm(172N・m)以上/6,400rpm
寸法(英語ページ)
全長3,930×全幅1,580×全高1,035mm・ホイールベース2,360mm
車両重量(英語ページ)
620kg・アルミのボディ
初優勝
1966年の第3回日本グランプリ(富士)

この面の立ち位置

R380そのものの歴史や、スカイラインGT-Rへのつながりは、同じ編集部の非公式のファンのサイトの プリンス.com の R380 の面 が詳しいです。ここでは、オーテックジャパンの図鑑の側から、「オーテックと何が確かめられて、何が確かめられないか」を書きます。

R380が生まれた理由

日産ヘリテージのページによると、1964年の第2回日本グランプリで、スカイラインGTがポルシェ904に敗れました。その雪辱のために開発されたのがR380で、ページ(英語)は「戦後日本で最初のプロトタイプ・レーシングカー」と説明しています。ベースのエンジンはグロリア用のG7型で、そこから専用のGR8に作り変えています。

1966年の日本グランプリ

実戦のデビューは、1966年の第3回日本グランプリ(富士)でした。砂子義一さんの11号車が優勝し、2位以下に3周の差をつけ、大石選手の10号車が2位に入ってワン・ツーとなりました。ポルシェ906を破っています。プリンスは日産と合併する前の最後のレースで勝った、とページは書いています。合併後の名前は「ニッサンプリンスR380」です。

1967年の世界記録

日産ヘリテージの短い物語のページによれば、1967年10月8日、横山達さんがR380-II(A-II)で茨城県の谷田部のコースを走り、世界記録に7種目で挑み、50kmで時速256.09km、1時間で時速250.98kmなどを記録しました。このコースは国際機関の公認が間に合わず、当初は国内の記録の扱いでした。1965年にも記録への挑戦があったとページにありますが、月日の書き方がページの中で揃っていないため、このサイトは日付を書きません。

復元と保存

ヘリテージのページには、2013年にNISMOが車を完全にレストアしたこと、2018年に1966年当時の赤に塗り直されたことが書かれています。ここにNISMOの名前が出てくることは、この図鑑にとって大切な点です。NISMOは、2022年にオーテックジャパンと統合して日産モータースポーツ&カスタマイズになった会社の、片方の前身にあたります(会社の面)。ただし、2013年の復元は、統合の前の話で、オーテックジャパンが関わったとは書かれていません。

オーテックとの接点を整理する

つながり確かめた原文
櫻井さんが開発責任者ヘリテージのページに、開発責任者として名前がある
櫻井さんがオーテックの初代社長レジェンドのページとオーテック30周年のページに書かれている(櫻井さんの面)
R380の復元にNISMOが関わる2013年のレストアと2018年の塗り直しに書かれている
R380とオーテックジャパンの仕事確かめた原文に書かれていない(オーテック30周年のページにR380の語は見つからなかった)

つまり、つながりは人(櫻井さん)と、のちの統合した会社(NISMOの側)を通じたものです。会社同士の直接の仕事は、確かめられませんでした。

この面で確かめていないこと

関連:櫻井眞一郎さん、年表、NISMOヘリテージ

出典

出典のページを編集部が開いて読み、書いてあることだけを、自分の言葉でまとめています。原文の転載ではありません。